「ふるさと」という場所

私には「ふるさと」という場所がある。

そう思う人は大事にしてほしいな、って思う。

 

 

私の生い立ちはこんな感じ。

私の「ふるさと」を離れて、関東圏出身の人と話すことが多くなって気が付いたことがある。

「ふるさと」ってなんだろう?

私にとっての「ふるさと」はまちがいなく22年間過ごした長野の町だ。

 

 

山々に囲まれた四季折々に変わる自然。「長野県」と聞いて想像するであろうまさにそれ。

春の芽吹きとともに日に日に深まる山の蒼や、雨の匂い、田んぼの地平線から見える日の出を感じるとき確かに”かけがえのないもの”とさえ思ってしまう。

また、実家に戻れば両親に加え祖父までいて、最寄りの駅には学生時代はずっと顔を合わせた駅員さんがいて、ご近所さんも変わらずにいる。

しかし、冬と認識する11月から3月までの寒さは飽き飽きするくらいだし、盆地特有の暑さには避暑地という認識は間違っていると毎年思し、進学先・就職先すべて筒抜けで外を歩けば知り合いにしか会わないような狭い町にはいやいやしたこともあった。

 

話を戻そう。

「ふるさと」ってなんだろう?

 

私の生まれ育った環境より都会に行ったらどうだろう?ご近所さんとの交流はあるのだろうか?アパート、マンション、商業施設。瞬く間に風景が変わっていくのではないだろうか。

私の生まれ育った環境より田舎に行ったらどうだろう?ご近所さんは変わらずとも、確実に高齢化は進んでいくのではないだろうか?町としての機能は持続できるのだろうか?

 

ここで言いたいのは、ご近所さんとの交流がないことが悪いとか、高齢化という社会問題が顕著になっているから解決すべきということではない。いや、もちろんどの問題も解決できるに越したことはないが。

 

「自然もある。慣れ親しんだ町があり、人がいる。その町の町としての機能もおそらく持続できそうだ」と私のように「ふるさと」を当たり前に持っている人はその希少性に気が付きにくい。だから、「あー、言われてみればなんだかふるさとらしいものがあるなー」って気がついてもらいたい。